令和5年4月10日(月):最後の弁当
朝食:雑炊、韓国風春雨、鶏焼

久々にこんなの食べました。ここまでまずいものってそうあるもんじゃないでしょ。>韓国風春雨
食べ物を粗末にしたくはないのだけど、これはもう捨てたい。我慢の限界を超えてます。今日以降、私がこれを選ぶことはないでしょう。
昼食:最後の弁当+あさげ

明日からは手作り弁当が不要になるので,これが今シーズン最後の弁当。
私が食べているとある同僚が「今日も愛妻弁当?」(いや、食べに行くお金がないからなんだけど)『ええ、まぁ…。』
「ええなぁ。(自分は)1回も作ってもらったことがない。一回もよ。」と少し暗い顔で言う。
家人は「弁当づくりは究極の愛情」と言っている。朝早く起きて、いろいろ考えながら毎日弁当を作るのってそう簡単にできるこっちゃない。確かにその言葉はあたっている。
子どもが小学校の時、近所のおばさまが言っていた。『明日で夏休みがやっと終わる。よかった。ホントにやっとよ。』
子どもの昼ご飯を用意するのがしんどいって言いたいのだ。本気で言っているのかどうか知らないが、そんな親なんだなとその人たちを見ていた。
しんどいこともわかる。面倒なのも理解できる。けど、子どもが大学に行ったら家を出て行くと仮定したなら、小6の子どもなら親のご飯を食べられるのはあと6年。『お母さん、おいしい!』って言う言葉は、7年後からはもう聞かれなくなる。7年後からは旦那と2人ぼっちのご飯。旦那がいなかったり仕事で遅くなるなら、そこからは延々とひとりぼっちの食事が続く。『おいしい。』『あれが食べたい。』『今度もまたこれ作って!』と言う言葉が聞かれなくなっても本当に良いのだろうか。
ご飯づくりは愛情表現、弁当づくりは究極の愛情って思いませんか。
夕食:昨日の鶏鍋の残り

後もう半玉分白菜があるんだけど、どうしよう。シチューぐらいかなぁ。豚と一緒にミルフィーユか。
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